なぜアスリートがメイクをするだけで叩かれなくてはいけないのか

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高梨沙羅選手へのバッシング

スキージャンプの高梨沙羅選手のメイクについてバッシングが起きています。

思わず目を疑いました。

バドミントンの奥原希望選手が呟いたツイートです。

奥原選手が引用したWEZZY(ニュース提供元はexcite)の記事に書かれていた内容は、想像をはるかに超えるものでした。主にその非難の理由について。

2016年

年頃の他の女性と同じように高梨選手がメイクを実践し、テレビに映し出される彼女の顔つきが少し大人びていった頃、少し批判の意見が出たのは私も覚えています。

日本国民の多くは、まだあどけなく幼い顔立ちだった頃から高梨選手を知っていました。それまでマイナーだったスキージャンプ女子という競技で、彼女が世界トップクラスと渡り合うようになるまでのストーリーを、共有してきました。
高梨選手を沙羅ちゃんと呼び、我が子のように見守ってきた人もいたはずです。

それゆえに、彼女の変化が少し寂しく映ったがゆえの、お節介だろうと思っていました。推しが髪色や髪型を変えて残念がるファンと大差ないものだと思っていました。批判ではなく、彼女の変化に一時的についていけなかっただけだと思っていました。

高梨選手が20歳になった2016年のことです。

雑音は、ただのお節介ではなかった

あれから3年が経ちました。

メイクを覚えた彼女は五輪を経験し、W杯でも総合優勝を果たしました。お節介が取り越し苦労であったことを、結果で証明しました。そもそも別に彼女にとってはメイクすることの正しさを証明するつもりもなければ、証明する必要もなかったでしょう。

髪を染めたり、好きな色のシューズを履いてみたり、「自分らしさ」を何かで表現することはスポーツ選手だろうと、そうじゃなかろうと極めて普通で自然な考え方です。
当然ながら女性には化粧とかネイルとかが選択肢として入ってきます。そして、その有無がアスリートの成績に直接的に関与することは、フィギュアスケートやアーティスティックスイミングなどの採点競技を除いては有り得ません。

なのに、あれから3年がたった今でもなお、高梨沙羅選手は顔の見えない人々から批判されています。

これはもはや変化を残念がって生まれる感情ではありません。バッシング。

 しかし、高梨の優勝を伝える記事がYahoo!ニュースに配信されると、そのコメント欄(ヤフコメ)には、競技成績についてではなく以下のような、酷いコメントが相次いだ。

「アスリートの爽やかさが無くなりました…」
「もはやアスリートの姿形ではないよ」
「可愛い高梨沙羅のイメージしかないのだが、なんだか別人みたい」
「今の高梨沙羅は、私が好きだった沙羅ちゃんじゃない」
「好感が持てなくなった人も結構いるのでは?」

 記事に匿名でコメントをつけるヤフコメが、著名人に対する誹謗中傷まがいのコメントで溢れることは日常茶飯事ではある。また、掲示板「ガールズちゃんねる」にもスレッドが立ち、ここでも「整形しすぎ」など顔姿にまつわるコメントが続出、高梨に対するネットバッシングの勢いは異常といえるレベルに達している。

引用元:WEZZY

WEZZYの記事で紹介されている心無いコメントに共通しているのは「アスリートは/私の好きな沙羅ちゃんは、かくあるべき」という固定観念の押し付けでした。

世界で戦うアスリートとしてこの上ない結果を残しながら、なぜ彼女はこんなことを言われなければいけないのでしょうか。
他者を誰も傷つけることなく、自分のパフォーマンスにも影響を及ぼさない「自分らしさの発現」は、なぜ「調子に乗っている」と見なされなければならないのでしょうか。
冒頭で引用した奥原選手のツイートと全く同じ気持ちです。

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メディアの功罪

「私の知っている沙羅ちゃんはかくあるべき」論には全く賛成できないという前置きをさせていただきますが、高梨選手の変化にこれほどまでに敏感になる人がいる理由の一つに、メイクを覚える前の彼女を多くの人が知っている点があります。

これは台頭したての頃から彼女を追い、次世代を担う女性アスリートとして報じてきたメディアによるところが大きく、その報道があったからこそ高梨選手はジャンプ女子のパイオニアとして期待以上の成長曲線を描き、日本を代表するアスリートの一人となりました。

一方、若年時代から多くの目にさらされて「沙羅ちゃん」という固定化された印象づけがなされたことも否めず、「沙羅ちゃん」は国民的な女の子(娘)と位置づけられたことで、アンチの声すらも受け止めなければならないかのような大きな存在になってしまいました。

だから、彼女を叩く人は「以前の高梨沙羅」を引き合いに出すのでしょうし、国民的な存在となった彼女に、必要以上に自分の理想を乗せたりするのでしょう。これが有名税というのであればあまりにも理不尽なのだけれど。

愛ちゃん、藍ちゃん、真央ちゃん

高梨選手に限らず、卓球の福原愛さんや、ゴルフの宮里藍さん、フィギュアスケートの浅田真央さんも、国民的な女性アスリートとして期待と夢を一身に背負ってきました。

共通するのは、多くの人が彼女たちの小さい頃の姿を知っており、彼女たちのサクセスストーリーを我が事のように見てきていること。これにはメディアの報じ方が大きく関係していることは言うまでもありません。

男性アスリートでも「国民的な息子」はゴルフの石川遼選手のような例があるものの、女性選手と比べると圧倒的に少ないです。
これは明らかに報じ手が「国民的な娘」として女性アスリートをクローズアップする手法を取ってきたから。私もいわゆるマスメディアと言われる媒体に勤めていた時は痛感しました。嫌という程に。

ちなみに前述のWEZZYには、「石川佳純選手や高梨沙羅選手、女性アスリートをアイドルコンテンツ的に消費するメディアの問題点」という記事もあります。

卓球の石川佳純選手がここでは挙げられていますが、女性アスリートはこういうものだと固定化して報道する機関はまだなくなっていません。で、この固定化は多分、アスリートファーストに反するものだと私は思います。

偶像として消費する思考をメディアが先にやめるか、我々受け取り手が先に脱却するか。そう問われているような気がします。

その批判は誰を幸せにしますか?

極論すればWEZZYの記事で取り扱われているヤフコメの批判は、メイクが濃いかナチュラルかについての個人的な嗜好でしかありません。

金色に髪を染める選手もいれば、ドレッドヘアにする選手もいるし、高梨選手よりももっと派手なメイクでプレーする女子選手だっている。それらに対しての好きだとか好きではないと思うのは個人の自由。同時に、そうやって自分を表現する選択をするのだって選手の自由なはずです。そして本来アスリートが評価を受けるのは彼女たち、彼らの職業である競技の結果であるべきです。

けれど今の論調は「メイクが好きじゃない」という負の側面、しかも競技と関係ない部分ばかりがクローズアップされてしまっています。

きっと「好きでやっているんだからいいじゃん!」っていう意見もたくさんあるでしょう。でも、それを主張する以前に、負のワードが並び、まるで悪いことをしているかのような雰囲気が醸成されてしまっています。
とても悲しく、虚しいことです。

「私が好きだった沙羅ちゃんじゃない」と言う人は、少なからず高梨沙羅という選手に関心や熱い想いを持っているのだと思います。
興味がなければスルーすればいいだけですから。

その熱い想いを、彼女を傷つけるのではない方向に向けてもらえないでしょうか。
周りの女性と同じように大人になった「沙羅ちゃん」の今を理解しようとしてもらえないでしょうか。

今は様々なツールで個人の主張や意見を述べることができる時代です。
気軽に投稿した個人の主張の集まりが、何かを動かせる時代です。

好き嫌いは自由です。でも人の選択も自由です。
自由を押し付けて、夢を追う人の自由を奪うーーそんな悲しいことにならないよう、風向きが変わることを祈っています。

感情に任せて書きなぐってしまいましたが、最後までお読みいただけた方、ありがとうございました。

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